現状、離婚事件、不貞慰謝料等「男女トラブル」というくくりでくくれないこともない案件を集中的に取り扱っているせいか、柚木麻子さんの小説がとても面白く感じるし、その描写の生々しさには脱帽する。
コロナによる自粛期間は、普段以上に本を読む時間や読んだ本について考えをまとめる時間を与えてくれた。
さて、その柚木麻子さんの小説の一つに、「本屋さんのダイアナ(新潮文庫)」という作品がある。この中で、ティアラというキャバクラに勤め、作中時間の経過とともにバーの雇われママとして就労する女性が、小学生の自分の娘の髪の毛を金髪に染めさせていた理由について述べる箇所がある。
『うちもそうだったから、わかるんだ。小学六年生の時に、学校の帰り道に変な男にいやらしいいたずらされたの。一度じゃなくて何度も何度も。誰にも言えなくて、あんときはすごく悩んで、しんどかった。学校にも行けなくなったくらいだよ(同書111ページ)』
『(中略)そん時は思いつかなかったよ。うちの親や兄姉は、何かあるとすぐ、うちが悪いって押さえつけるような人達だったから。学校の先生や友達にも言いづらいしね。辛くて口惜しくて、ご飯も食べられなかったよ。でも、あたし、バカじゃないからね。自分の頭で考えたんだ。それで、サーファーやってた中坊のダチに手伝ってもらってキンパにしたんだ。そしたら、ぴたっと痴漢に遭わなくなった(同書112ページ)』
『職場にもそういう娘けっこういるよ。いじめられたり変な男に目ェつけられやすくて、ギャル始めたって子。あ、痴漢やセクハラ野郎って、派手な女が苦手なんだよ(同書112ページ)』
上記の抜粋だけでも、読み手によって感ずるところ、論ずべき争点としたいところは本当に多岐にわたるのではないだろうか。
わたしは上記の箇所を読んだ際、大学一年のころに受講した「ジェンダースタディーズ入門」という講義の一幕を思い出した。
その講義の最中、講師は、「これまでに露出狂に遭遇したことがある人よかったら手を上げてください」と受講生に促した。
そうしたところ、かなりの人数の女子学生が手をあげ、他方男子学生で挙手した人はいなかったのではないかと思う。
この様子をみて、わたしは、「女性が見ている、あるいは生きている社会とか世界は、男性のそれとは随分違うのかもしれない」と思った。当時わたしは現実に露出症の患者を目撃したことはなかった(ただ、この後、かなり大々的に露出している人を目撃して、おぉ、本当に露出症の患者って存在するんだなと思った。)。
もちろん、相手の事情や背景について、想像することはできるが、実際に身をもって体験するのとはやはり違う。限界がある。わたしは、2015年のパリ同時多発テロのとき、現場から2キロ未満のところに住んでいた。あの事件一つとっても日本でニュースで見ただけなのとでは、死の現実感が違った。
柚木麻子さんのあくまで小説であって現実を描写したものではない、という限界はありつつも、小学生の娘の髪を金髪に染めるという行為に対する意味づけ、評価、印象はがらりと変わるだろう。
柚木麻子さんの小説は、単純に読み物としても面白いのであるが、仕事上の実益もかなりある。離婚調停の相手方が女性である場合、ギリギリの交渉をしている際には特にそうだ。結局相手が最優先で確保したい事項は何なのか、結局どこが許せないのか、どういうつもりで相手はこういうことをいっているのか…
もちろん、小説を読んだだけで女性の思考が読めるなどというつもりはない(そもそも、わたしは膨大な人数の人を男性女性というわずか2つの枠組みで分離すること自体無理があると思っている。窃盗で多数の前科がある高齢の女性被告人を女性である東京高等裁判所部総括判事が裁く有様を見て以来、いっそう「男性」とか「女性」という型訳に意味を感じなくなった)。ただ、伏せられた手札の中身について、多数の仮説を提供してもらえるのは確かだ。